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マッチの始祖・清水誠氏は明治21年(1888)に新燧社を閉鎖して、金沢に引退していたが、マッチ製造機の研究を続け29年に摺附木軸排列機を考案し、更に工夫を加えて30年に新排列機の特許を得ている。マッチの中心が関西に移ったので、清水は30年に大阪に出てマッチ工場・旭燧(きょくすい)館の設立を申請して再挙を図ったが、軌道に乗る前に病に倒れ、32年(1899)に大阪の病院で逝去した。享年55才。墓は郷里金沢市の玉泉寺にある。彼の功績に対し大正5年(1916)従5位を追贈された。
明治31年(1898)に商標の同好者が集まって東京で第1回燐票会が開催された。国産マッチが出現してから20年になり、同好者が増えてきた。集める商標は有標でしかも小箱に貼られたものが主体であるので、集める人も大層苦労したようである。当時で有標の数は数千に達していたという。珍奇なマッチ商標は1枚3〜5円の高値を呼び世人を驚かした。(その時代マッチは1箱2厘〔0.002 円〕で売られていた)
明治32年当時、神戸市の主要なマッチ工場の規模は次の通り。 (出所 燐寸年史) |
| 工場名 | (経営者) | 生産能力(年間) |
| 瀧川工場 | (瀧川辨三) | 36万 | マッチトン |
| 良燧合資会社 | (瀧川辨三) | 24万 | 〃 |
| 鳴行社 | (播磨幸七) | 18万 | 〃 |
| 奨拡(しょうかく)社 | (直木政之介) | 16万 | 〃 |
| 明治社 | (本多義知) | 14万 | 〃 |
| 開栄株式会社 | (沢田清兵衛) | 14万 | 〃 |
| 瀧川合名会社 | (瀧川辨三) | 9千 | 〃 |
これらの主要工場の生産設備は、マッチ工場としては大きい規模であったことが推察できる。
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