|
明治26年に日本郵船がインド向けのボンベイ航路を開設し、途中で積替えをしていたマッチの輸出が直接インド向けに出荷できるようになったので、それ以後インド向けマッチが増えた。
明治26年に日本郵船がインド向けのボンベイ航路を開設し、途中で積替えをしていたマッチの輸出が直接インド向けに出荷できるようになったので、それ以後インド向けマッチが増えた。
| インド向け輸出量 (出所 マッチ工業統計総覧) |
| 明治22年 | 954 | マッチトン |
| 23年 | 2,344 | 〃 |
| 24年 | 580 | 〃 |
| 25年 | 5,852 | 〃 |
| 26年 | 22,040 | 〃 |
| 27年 | 41,193 | 〃 |
| 28年 | 63,774 | 〃 |
マッチトンの定義
並型マッチ:(小箱寸法 長さ56・巾37・厚さ17)7,200個を1マッチトンとする。当時、1マッチトンを1梱包(木箱)にして輸出した。
明治27・28年には日清戦争が勃発し、一部の華僑は帰国し、戦争の影響で労働力の不足もあったが、中国向け輸出には大きな影響はなかったように見受けられる。
明治27年当時、農商務省特許局が大阪兵庫燐枝製造業組合聯合会を通して調査した全国マッチ業者の分布は次のようである。
| 兵庫県 | 28 | 工場 |
| 大阪府 | 26 | 〃 |
| 東京府 | 18 | 〃 |
| 岡山県 | 5 | 〃 |
| 静岡県 | 3 | 〃 |
| 広島県 | 2 | 〃 |
| 愛媛県 | 2 | 〃 |
| 青森県・香川県・徳島県 各々 1工場 |
| 合計 | 87 | 工場 |
マッチの呼称には変遷があり、燐寸(マッチ)が定着したのは明治20年以降である。
各種文献に掲載された呼称の主なものを時代順に並べると下記の通り。
| (読み方不明はそのまま記載) |
| 1852年(嘉永5年) | 紅毛付木 |
| 1855年(安政2年) | 付木 |
| 1857年(安政4年) | 火寸(まっち) |
| 1860年(万延元年) | 引火奴(つけぎ)、発燭子、メッス |
| 1863年(文久3年) | 早付木(はやつけぎ)、火燭 |
| 1866年(慶応2年) | 火燧 |
| 1867年(慶応3年) | 火奴、ポスポル |
| 1870年(明治3年) | メッチ附木、ろうつけぎ |
| 1871年(明治4年) | 白末火、硫柿 |
| 1873年(明治6年) | 西洋附木、マッチ |
| 1874年(明治7年) | 摺附木(すりつけぎ) |
| 1875年(明治8年) | まっち、はやつけぎ |
| 1877年(明治10年) | 磨附木(すりつけぎ)、黄燐剤蝋軸 |
| 1878年(明治11年) | 懐中付木マッチ |
| 1880年(明治13年) | 画火柴(すりつけぎ) |
| 1881年(明治14年) | 擦ほくち |
| 1882年(明治15年) | 燐枝、火柴 |
| 1885年(明治18年) | 洋燧(まっち) |
| 1886年(明治19年) | 木燧(すりつけぎ)、燐燧(まっち) |
| 1887年(明治20年) | 懐中火縄、燐枝(まっち) |
| 1888年(明治21年) | 燐寸(まっち)、木燧(まっち)、蝋附木(ろうまっち) |
| 1891年(明治24年) | 寸燐(まっち) |
| 明治27・28年頃までは主に摺附木と燐寸の両方の用語が使われていた。 |
|