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明治10年(1877)に開催された第1回内国勧業博覧会には新燧社のマッチを出品し、鳳紋賞牌(ほうもんしょうはい)が授与された。また、14年の第2回内国勧業博覧会では進歩1等賞を獲得した。これらの受賞は新燧社のマッチの品質が優れていたことを実証している。明治10年3月に神戸市山手通で堀という人が燐寸工場を新設したが小規模であった。これが神戸マッチ製造の先駆けである。
函館の玉林治右衛門は服役中であったが、不自由な環境下、独力でマッチの製法を研究し、明治10年(1877)に試作に成功して、清水誠から優秀なマッチとの品質保証を得ている。玉林は明治13年(1880)函館燐寸製造所を設立した。
清水誠が士族授産、産業振興の見地からマッチ製造法を公開したことも手伝って、各地にマッチ工場の建設が企画された。その主なものを掲げれば次の通りである。
| 葆光社(盛岡) | 慈恵社(尼崎) |
| 就光社(姫路) | 積善社(膳所) |
| 有恒社(岡山) | 徳潤社(徳島) |
| 百做社(土佐) | 共勉社(高松) |
| 真燧社(名古屋) | 葎律社(金沢) |
また、明治11年(1878)には長岡で燦盛舎が設立され、下津燐寸株式会社の前進である蜂蟻社(ほうぎしゃ)(高松)は明治12年(1879)に設立された。
明治11年に初めて清国上海にマッチを輸出。これ以来、マッチが日本の重要な輸出商品の一つとなった。
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